声が聞こえる|12月1日

一週間に一度くらいの頻度で、現実と夢の狭間で夫の声を聞く。
毎日々居なくなった現実と戦っていると、
夫が時折励ましてくれているのか、「おーい!」とか、「るみこぉ~!」とか、
私を呼んだり、「あのさぁ」とか「なぁなぁ」とか話し掛ける声が聞こえる。
長い言葉ではないけれど、二人の生活が続いている錯覚を起こす時がある。
返事をすると近くにいるのに遠ざかってしまいそうで怖くて出来ない。
近くで見守ってくれていると思いたいから、
完全に目が覚めても夫には話しかけない。
この現象は亡くなって暫くしてからずっと続いている。

この冬が過ぎると春が来て、4月になると一年になる。
こんなにも長い時間を一人で生きた。
いろんな事を考えた。
私が先に逝ったとしたら...と考えてもみた。
とてもじゃないけど、ひとりになった夫の姿は可愛そう過ぎて想像できない。
だからと言って、この現実を受け入れる助けになるわけでもない。

今までずっと理由を見つけて、これでよかったのだと思い込もうと努力した。
だけど、悟った。
何がどう良くても私には夫が必要で、生涯その想いは消えることはない。
どっちに寝返りを打っても七転八倒する程悲しい心を抱え切れなくて、
少しでも悲しみの重量を減らそうとして来たけれど...止めた。
自分に対する慰めと伴侶を喪った辛さとは、平行線のままで、
いつまで経っても歩み寄ることはない、と解った。
歳老いて、自分の体を持て余すようになれば、
自然に意識は我が身に集中し、あらゆる神経も鈍感になる。
感動も楽しみも薄れる分、辛さも悲しみも少なくなる。
それが自然の摂理なのだと気付いた。
気付いた途端に10歳くらい歳を取ったみたいで、
努力をする、ということを放棄し出した自分が居座り出す。
こうなると人間は、プライドを捨て、どんどん愚かな生き物になる。
私が軽蔑を繰り返して来た医師連中と同類になる。
けっこう彼らも生きる術の一つとして、やっとの思いで築いたスタンスかも、
などと仲間意識さえ芽生えたりもする。

人生は出来るだけ曖昧な方がいい。
ほんとうに、その方が楽でいい。
答えを求めて突き進むと、自分で自分を破壊するようになる。
退廃的な性質は今に始まったことではないけれど、
傍で叱咤激励し全てを受け入れ慰めてくれた唯一の人が居て
私という人間が笑って生きて来れたのだと深く実感している。
その想いは時が経てば経つほど私の中に溢れかえる。
こんなにも大切な人を喪ったのだという想いが溢れかえる。