客観性思考|11月3日

最愛の人を喪った人間は、客観性思考を排除してしまう傾向にある。
今の状況を少しだけ離れて筋道を立てて考えれば、
少しだけ楽になれるかもしれないのに、
渦中の人間は、それを選ばず悲しみの渦の中に躊躇なく飛び込んでしまう。

他人は云う。
「後ろを振り返っても仕方がない」
「世の中には、もっと不幸な人がたくさん居る」
「元気を出せ」
「あなたは、幸せだ」
「まだまだ、これからが人生だ」
皆、もっと自分を客観視しろ、と言っている。
どれも間違ってはいない。

しかし、そう言う人達と違って、
私は夫を知り抜いている。
誰よりも信頼し、深く愛している。
29年もの日々を支え合い過ごした人との思い出を
振り返らずして私の人生は成り立たない。
どんなに辛くても、出来る限り夫を感じることが、
私の唯一の生きがいと言える。

私の中には、こらえ切れない実感というものがたくさん巣食っている。
そう簡単に二人の関わりを冷静に切り離すことは不可能なのだ。

世の中と隔離された自分がいる。
まるで、人間ではなくなったような自分がいる。
我慢に我慢を重ねて、クタクタになっている自分がいる。
夫の闘病中、私はもっと強かった。

まだ、生きなければならないのに、
自分の人生設計が見えて来ない。

夫はよく
「オレ、今、何考えてたか知ってる?」とか
「オレ、小さい頃、野球上手かったん知ってる?」とか
知るはずもない事の「知ってる?」と
逆に「今、寝てたん知ってる?」とか
「今、オレ焼きそばメチャメチャ食べたん知ってる?」とか
知らないはずのない「知ってる?」を絶妙なタイミングで云うから
闘病中、深刻になりつつある私も、思わず笑わせられた事は何度もある。
二人だけが共有できる至極の時をずっと過ごして来た。

絶対に他人には見せない、
お茶目で少しだけ気の弱い側面は、世界中で私だけしか知らない。
そんな人を一瞬でも忘れる事は他人が思うほど簡単ではない。

少しづつ記憶が遠のいて、人間は辛い事を忘れるものだ、と
夫は言った。
だけど、どんなに辛くても私は記憶の彼方に夫が遠ざかる方が怖い。

半年以上が過ぎても私には、まだやり残していることがある。
大阪府立成人病センターの緩和科の主治医に会いに行くこと。
近くのメンタルクリニックで抗欝剤を処方してもらっているけれど、
やはり大阪府立成人病センターの緩和科の主治医に会いに行きたい。
なのに半年以上も経って、まだ決心が付かないでいる。

大阪府立成人病センターの受付で、
採血や抗がん剤の点滴を待った待合で、
入院中によく行ったコンビニで、
駅から大阪府立成人病センターに辿りつく道ですら、
私は、どんな精神状態になるのか見当がつかない。
思いも寄らない感情に襲われることを恐れて
いつまでもグズグズしている。

私の今の状況で客観視というものは、
とことん辛くなって自分を見失いそうになった時にだけ
最後の手段として、ほんの少し自分を救うために生まれる微々たる思考回路でしかない。
そんなもの、有っても無くても私には関係ない。

毎日、毎日、実感との戦いで、時が過ぎていく事だけを横目で見ている。