死ぬよりも辛いこと|10月19日

私は、夫の病気が発覚してから事あるごとに悲観に暮れた。
自分の気持ちを落ち着けようと、表面的には淡々としていても、
内心は、いつも不安に押しつぶされ、自分の無力さに苛立ち、
時には全てを投げ出すことが出来れば、どんなに楽だろう、と思ったこともある。

そんな私の様子を傍で見ていて、
「最悪でも死ぬだけやろ、それ以下は無いねんやろ、
人生には死ぬより辛いことが一杯あるよ。
どうせ人間、一回は死ぬねんで、この歳で、
こんな平和な世の中でお前に尽くされて死ねるんやろ、最高やん。
オレ若い頃、修羅な人生を歩んで来たから、
こんな事くらいオレの視点から見れば大したことないねん。」と云っていた。

それは、夫の状況を悲観する私に対する慰めであり、
同時に治療の選択によって、如何なる結果になったとしても
私が責任を感じる類のものではない、ということを訴えるものでもあった。

確かに世の中には、死んだ方がマシだと思うことがあるだろう。
正に生き地獄の中で死ぬ事も許されない状況に遭遇すれば、
死ねる幸せ、というものも必ず存在するだろう。
それは、理解できる。
だけど、そんな極論を言われても、
素直に今の状況に当てはめて納得できるものではなかった。

今更、知る由も無いけれど、
夫が経験した私の知らない死ぬよりも辛いことって何だったんだろう、
と思ってしまう。
少なくとも妻として、理解すべきことは全て理解していると思っていた。
ひょうきんなフリをしていても、
世間知らずの私には言わなかった事も、もしかして沢山あったのかな、と思うと
また、悲しみが込み上げてくる。

私は、こんな歳になっても、まだ世間の荒波を知らない。
二人で苦労を共にして来たつもりでも、
夫は戦いの最前線には一瞬たりとも私を立たせなかった。
自分の大きな胸の中に私を抱え込み、火の粉から守り続けてくれた。
だから精神は、いつまで経っても成長しない。

夫は元気な頃も、いつも何かを考えている人だった。
歩いていても、食事をしていても、歯を磨いている時でさえ
明らかに何かを考えている顔をしていた。

きっと、ガンの宣告を受けて鬱病になったのも
人生の終わりへの悲観ではなく、人生が終わるから考えることが多すぎて
許容量を超えてしまったのだと思う。

元気な時も、病気になってからも
私は、いったい、どれ程の孤独感を夫に味わわせてしまったのだろう。

夫の面影を追い続ける場所で、二度と戻って来ない人の本当の姿を
じっと考え続けている。