あの世とこの世をつなぐもの|6月16日

今年に入って、一月が過ぎ二月が過ぎる頃、
夫がそろそろ治療を止める事を決めるだろう、と思われる頃に、
私は最後の重大な任務を完結させるべく
自分自身が出来る限り冷静になる為に二冊の本を読んだ。
重大な任務、それは、夫を楽に死なせることである。
三年数ヶ月に及ぶ闘病生活がいよいよ終わってしまう、
夫との別れが近づいている、
充分に錯乱している気持ちを少しでも沈める何かが必要だった。
かと言って、無神論者である私には
如何なる宗教も邪魔にはなっても私を助けてくれる存在ではない。
宗教というものは、
その人が信じることができるか出来ないかだけの論理で、
信じることができれば、その人にとっては素晴らしいものだと思う。
しかし、私が知る範囲の宗教は、
全てが頂点に君臨する人(神)が居て、
それを崇拝する、という形で成立している。
確かに何千年も前の創始者は
人間の域を超えた崇拝するに相応しい存在だったとは思う。
しかし、歴史は必ず長い年月のうちに真実が捻じ曲げられる。
その団体を維持するために、
時代背景も手伝って純粋に人を導く教えが欠けて行くものだと思う。
発展途上国では今も宗教の対立で戦争が起こっている。
それなら、そんなもの無くなってしまったほうが人々を救う気がする。
人を尊重しない、謙虚でない、自由でない、
何故か私には、そんな風に思えてならない。
しかし、二冊の著書は違った。
一冊は、東大付属病院で救命救急に従事している矢作直樹医師のものである。
彼は、日々生きるか死ぬかの患者と向き合い、
睡眠時間も取らず、生活の拠点が病院という、
真の医療現場で患者を直視している人である。
末期がん患者を事務的に
心なく同じことの繰り返しで診ている医師とは正反対の医療者である。
彼は、そんな状況の中で心の内から患者を診て、
感じ取っている言葉がある。
「今まさにこの世にお別れを告げようとしている人は、
まるで何かを見つけたような、
ちょっと驚いたような表情に変化する方が少なからずいらっしゃいました。
何かを見て、顔をほころばせたように思えた方もいらっしゃいます。
そんな表情を長年目にしていくうちに、
死が幸福であるとは言わないまでも、
死ぬ事が一概に不幸なことだとは思わなくなりました。」
この医師は、あの世の存在を信じている。
私も信じたい。
信じられる根拠は、回りくどい宗教論理と違って、
壮大な宇宙を考えると信じるしかなくなる。
宇宙には果てがない。
果てがないなんて、
この世に存在するための肉体や物質にがんじがらめになっている人間にとって、
それは脳細胞を破壊されるようなことである。
頭の悪い私には、どう考えても結論の出ない理論である。
しかし、その宇宙から見れば、
私たちの命なんて細胞レベル、或いはそれ以下なのだ。
そこにあの世と呼ばれる場所が存在しても、
それを否定するのは科学的にも無知であり、
教養が無さ過ぎるのではないか、と思う。
そして、夫の死に方で、それが証明された気がした。
夫は笑顔で死んで逝ったのではなく、
心臓の鼓動が止まった瞬間に満面の笑顔になった。
それはやっと死ねた安堵感なのか、
久しぶりに誰かに会った喜びなのか私には分らない。
しかし、深く結び合った者だけが感じ取れる
この世より安楽な世界への旅立ちのような気がしてならなかった。
もう一冊は、フィリップ・ラグノーというジャーナリストが
最愛の妻をガンで亡くすのだが、
その死後もなお二人はコミュニケーションを取り続ける、というものである。
「愛は死を超えて」という正にシンプルなスピリチュアルラブストーリーだ。
私達が大好きだったネコの存在も読む気になった理由のひとつだった。
そして、今読み終えようとしているのが
大韓航空機撃墜事件で妻と息子を亡くした著者が、
極限の悲しみの中、
天国からのお二人の交信を実現した無知から光明への足取りを綴ったものである。
この方も宇宙の摂理を説かれている。
私が望むことは、この世とあの世をつなぐこと、そのことだけである。
今、夫がどうしているのか、どんな気持ちでいるのか、
それをただ々知りたい。
夫の死をひたすら忘却の彼方へ押しやってしまう事だけが、
私の仕事のような人生を歩みたくない。
これらの著書は、病床の夫を看護する不安に押し潰される私と、
夫を亡くし悲しみに暮れる私に小さな明かりを灯してくれた。
何よりも本人のやり場のない苦しみの中での実体験が導き出す信憑性は
私の小ささを思い知らされる。
希望が無ければ、人は生きて行けない。
その希望を少しでも取り戻すために、
これからも、とてつもない苦しみから生み出された
貴重な論理を読みあさりたいと思っている。